大畑の山と川と海の物語 著者 澤さんとは 戻る 奥山の森
奥山の森には、本州最大の肉食獣(にくしょくじゅう)のツキノワグマがすみ、神々がちん座する山として、古くはマタギやキコリたちが山仕事の安全を祈るために山の神のほこらを建てお祈りをささげました。
下北の奥山の森では、針葉樹のヒバと広葉樹のブナ・ミズナラなどとの混交林で、南向きには広葉樹、北向きにはヒバとおおむね分布が分かれているほか、日光や風のあたりぐあいとか水分などの条件によって、針葉樹と広葉樹が色々な密度でまじりあっているのです。
そして標高700メ−トル以上ではブナだけの森になるはずが、300年たっても直径が20センチしかないヒバやイチイも頂上付近に例外的にみられます。
木や草(生産者)の光合成の結果として成長した葉や幹や果実など(生産物)を、ミドリシジミやブナアオシャチホコなどなど数しれないチョウの幼虫たちと、ほ乳類などが直接に植物を消費し(人間もその仲間)、この昆虫たちを野鳥や肉食のほ乳類、は虫類、両生類などが捕食し、これらによってさらに食物れんさの頂点に位置するオオタカ・クマタカ・イヌワシなどのもうきん類や肉食のほ乳類が生存できる環境(かんきょう)ができているのです。
わすれてならないのは、これらすべての生物のしがいを分解して土に返すしごとをしている地中の微生物(びせいぶつ)やキノコなど菌類(きんるい)を含む土の中の生態系が豊かであることが大切なのです。
'94フォ−ラムin大畑はこれまで、自然観察会(しぜんかんさつかい)で朝比奈岳(あさひなだけ)、大尽山(おおづくしやま)、燧ケ岳(ひうちがたけ)に登りました。
朝比奈岳(あさひなだけ)は874メ−トルと下北半島では2番目に高い山です。
朝比奈岳へは'97年6月22日、薬研をすぎて間もなく左に曲がるするうぐい滝沢ぞいの林道をバスでさかのぼって、まぼろしの滝の上を通りこし、林道からチシマザサのやぶをかき分けて3時間の大変な登山でした。
この年は春がおそく、林道の終点ではシラネアオイがまっさかりでしたが、山頂の近くには雪渓(せっけい)があってブナの芽はまだ開えていませんでした。ふきんには冬眠からさめてまもないツキノワグマの寝床があって、登ったなかまたちの中には始めてかぐクマのナマグサイにおいにきんちょう感がただよいましたが、倒木にこしかけた途中の休けい地ではシジュウカラ科の野鳥のヒガラが、星くずをはじきだすようにツッピン・ツッピンとすてきにさえずって、登山者の疲れをいやしてくれました。
山頂には風や雪のために成長できないブナの古木が2メ−トルほどの高さに生えていて、木に登ってはじめて大畑の海岸線や宇曽利湖を見ることができました。
大尽山(おおづくしやま)は宇曽利湖(うそりこ)の水面に影をうつす三角錐(さんかくすい)いの美しい山です。’98年5月5日、案内人なしで始めての登山、しかもチョ−きつい急斜面の連続で、小学4年と6年の2人の少女をのぞいてみんなへとへと。あと100メ−トル、あと50メ−トルとはげましあいながら、ついた頂上は8人ほども乗ることができる大きな岩がありました。この日は天候にも恵まれたすばらしいみはらしで、眼下には宇曽利湖と大畑町の全景(ぜんけい)がひらけ、釜臥山(かまふせやま)・縫道石山・朝比奈岳が手にとるように、遠くには八甲田連邦(はっこうだれんぽう)・岩木山(いわきさん)などのすそが晴天にかすんで、山水画のようなながめでした。
燧ケ岳(ひうちがたけ)は、大畑町の湯坂下の家並みの上に見える山です。燧ケ岳へは’99年5月5日、この年は3月22日に降った大雪のえいきょうもあって、薬研キャンプ場から尾根(おね)づたいの林道まで車で行ったものの、途中からは車をおりて歩くことになりました。しかも冬型の天気でガス(きり)をともなう北西の季節風、旧牧場のヒュッテをすぎて雪の上を歩き始めたときに、今年はそれぞれ小学5年と中学1年になった例の2人の少女と高校2年男子のはいた運動グツがビジョビジョ。とちゅう雪におおわれた中で登山道をみうしなうというきけんをくりかえしながら、それでも午後1時ころには頂上らしきところに到着、みんなが南斜面で風をよけながら昼食をとっている間に頂上にあるヤグラをやっとさがして、ものすごいガスまじりの西風の中で記念さつえいをしました。頂上ふきんではイチイとヒノキアスナロ、南斜面に咲いていた普通の3分の1ほどのミズバショウと、去年つけた赤い実があざやかなアカミノイヌツゲが印象(いんしょう)にのこったほかは視界ゼロの世界でした。
今でもクマゲラを見たという人がいるくらいですから、白神山地のようにたくさんのクマゲラがすんでいたとことが想像(そうぞう)できます。
下北の山には日本三大美林のヒバの森が広がって、古くからヒバ丸太の伐りだしが行われていました。昭和30年代には大畑営林署で300人以上もの人々が働いていましたし、製材所の数も多くたくさんの人々が生活していける宝の山でした。
伐られた丸太は冬に馬ソリにつまれたり、ワイヤ−でつり上げられたり、森林軌道車(しんりんきどうしゃ=トロッコ列車)につみこまれて町まで運ばれて、製材所や営林署の土場(どば=材木おきば)に下ろされるのです。
今の大畑病院から大畑小学校横の道には昔、森林軌道の線路があって大畑木材、石塚製材所、椛沢ゲタ工場、長谷川製材所、大日木材、駒井製材所、西方製材所、大丸佐藤製材所、千葉製材所、東製材工場、丸勝木材、大畑産業、小目名木材、畑中製材所、仁木製材所、上舘製材所と16あまりの木材関係の会社の半数がこの通りにならんでいて、数千人もの人々の生活をささえていました。このころの町には活気があふれていました。
平成の今でも、この地方ではまだマキスト−ブを焚いている家がありますが、昔は春からのマス釣りやイカ漁にせいをだしていた男たちは、正月が終わるのをまって集落ごとに営林署から払下げをうけた「たき木山」に、ブナやナラなどの「たき木」を伐る(きる)ために、朝はやくから2里あまり(8キロメ−トル)も歩いて小目名ふきんの国有林まででかけていました。
伐った木は3尺(90センチメートル)の長さに切りそろえて「そり」で出し、トロッコ線路で家まではこんで次の年の燃料にしたのです。
あるとき父が親戚のたき木山から、黄色の大きなツメのするどい鳥の足をもって帰りました。だれかが鉄砲でタカをとったというのです。いま思うにあの鮮やかな黄色、あれはタカではなくオオワシのものだったにちがいない、それはオオワシなどがたくさん生きていける豊かな森が広がっていたからです。
昭和30年代、母方の祖父が関根村(今のむつ市)の高梨地区で「炭焼き」をしていました。高梨は川代駅から国有林のトロッコ線路を出戸川ぞいに1里半ほどですが、小学生のころ、冬休みにおじと大畑から国鉄の線路を歩いたり、浜づたいに歩いて川代のおばの家で一休みしたあと、いよいよトロッコ線路を歩いて「シシムラ」という雑木山にたどり
つきます。
祖父はおだやかな人で、30メ−トルほどの高さの山に炭焼きガマを築き、ナガラ(細い丸太)とスギ皮で作った5坪ほどの小屋で暮らしていました。私たちはネリミルクやキザミタバコなど祖父の好きな物をみやげにもち、到着するとすぐに、雪をふみわけて山にウサギワナを仕掛けに行きます。
次はまっすぐ伸びたホオノキを切って、山すそを流れる1間(180センチメートル)ほどの小川に橋がかかっていて、いつも鍋を洗うところにすんでいる4・5匹の大きなイワナを釣っては、夕飯にはいろりで串やきにします。
小屋はスギカワづくりですが、内側からはワラで目張りされて中はぽかぽかと暖かく、風の音やけものの声を聞きながらぐっすりと眠ります。
次の日は夜が明けるのもまちきれずにとび起きて、きのう仕掛けたウサギワナを見にいきます。多い日だと3羽もかかっていることがあり、さっそくミソとゴボウ、ニンジン、ネギなどを入れてウサギ汁にし、心臓と肝臓は串にさして塩をふってヤキトリにしていただきますが、それは体があたたまっておいしいものでした。
春休みは、祖父に「ナドに釣らいるヤマメぁあるもんだな」と言われながらも、出戸川でサオを出して、釣ったヤマメのパーマークの美しかったこと、川にどうしてこんなにきれいな魚がいるんだとかんげきしました。
思えば、私が川釣りを始めたこの川は、今はコンクリ−ト製の水路になってしまいましたが、かつての出戸川は水田地帯の平野部をゆったりと蛇行する、春にはけぶるようなヤナギやハンノキの芽吹きが、それは傷つきやすくもうるわしい野生の川でした。
この里山には、雑木林にはさまれた谷津田があって、水田と水路の回りにはドジョウ・シマドジョウ・ニホンザリガニ・タニシ・カエル・イモリ・フナ・ウグイ・ヤツメ・タガメ・ゲンゴロウ・ミズカマキリなどなど水性生物と陸性昆虫、これをねらうアオダイショウ・イタチ・ネズミ・サギ・カモ・キジなどが棲み、まわりの林には虫をねらうシジュウカラやヒガラ・モズなどの小鳥と、これらをねらうサシバ・オオタカ・ノスリなどの猛禽類とキツネ・テン・タヌキ・アナグマなど、ほ乳類が生態系の頂点に位置して生息しています。
いまでも毎年、林床(りんしょう)がカタクリやキクザキイチゲの花むしろでおおわれる春にはシシムラに出かけますが、リュウキンカやミズバショウの咲く湿地にツキノワグマの新しい足跡やフンを何度か見かけました。
祖父や祖母のいうには、昔は里にクマがおりてくることはなかったそうで、今のように人里までクマが出るのは、弁当のカラやジュ−スの空き缶をむぞうさにすてたり、後のことを考えずに森にブルド−ザ−できずをつけるなど、人間の自然とのかかわり方に問題があるのではないでしょう。
昭和30年代、大畑町の人口が1万3千人をこえたころは、イカ釣り漁業が最盛期のころで、65パ−セントをこえる人々が漁業で生計をささえていた時代でした。
朝、父や兄の乗った船が漁から帰ってくるのを子供たちも5時前には起きて、リヤカ−を引いて港まで迎えにいくのです。取ってきたイカは浜にしいたムシロにひろげられ、家族そう出でサイたり、洗ったり、干したりします。
小学校4年生にもなると、学校に行く前にマキスト−ブにツバガマを使ってご飯をたくくらいは当たり前のことでした。
漁業のかたわら、ほとんどの家では畑があって春にはジャガイモをうえつけるイモマキをし、夏にはイモホリ、そのあとにダイコンやナタネをまくなど、一年中食べる分の野菜やナタネ油をしゅうかくするのです。
そのためには家のまわりにワラをつんで上に残飯(ざんぱん)などをすてて堆肥を作ったり、子ブタを飼って残飯をエサにして大きく育てて売った後、しきわらを堆肥(たいひ)とするなど、食べ物をむだにしないで農作物の生産へとつなげていく生活のサイクルがきちんとできていました。
買い物をするときも、必要以上の包装(ほうそう)はしていませんでした。肉は木をうすくスライスした”きょうぎ”に包まれていましたし、トウフやトコロテン、コンニャクなどを買いにいくときは、ドンブリをもって買いにいくため、生活から出るゴミはごく少しのもので、浜のガンケにすてられていました。果物のカンヅメもカゼをひいたときでないと食べなかったもので、フナ釣りにもっていく空き缶も方々の「ガンケのゴミすてば」から、やっと見つけることができるくらいだったのです。
12月に入ってイカ漁を切り上げると男たちは、正月をすぎたころから関東地方などに出稼ぎにいったり、地元でサメ釣りをしたり、いそ舟でイソマワリをして春をまつのです。
大畑に国鉄があって貨物列車が通っていたころ、大量にとれたサメはカマボコの原料として大畑駅から貨車でつみだされていました。
このころの子供は自転車もなかったことから、あまり遠くまで遊びにいくことはありませんでしたが、どこの町内にもガキ大将がいて遊びのリーダーでした。上野では夏は砂浜や磯で水泳ぎをします。磯ではハワイ、フタゴイシなど石に名前をつけて、浅いところや深いところの石に泳ぎわたって、泳ぎのれんしゅうをしながらウニ・カンゼ・アワビなどをとってはオカに上がって、太陽にあたためられた砂に腹ばいになりながらたべるのです。砂底の海ではエビやカレイ、ヒラガニをとったり、小石を投げては海の底からきそってひろうあそびをしました。
秋には山にはいってアケビやヤマブドウをとり、冬は坂でソリやスキ−をしたり、穴だらけの県道では竹スケ−トをはいて馬ソリの後ろにつかまってスベリ、馬方のおじさんにしかられたものでした。
オニゴッコは季節にかんけいなくいつでもやりましたが、オニになる子は日によってきまっていたようです。オニゴッコの寒い日の夕ぐれ、電信柱(でんしんばしら)がうなりを上げていたことを思い出します。
寒い冬がおわると、まちにまった春です。長ぐつからゴムのタングツにはきかえたときのかんしょくと開放感は言いようのないうれしさです。
子どもたちの春一番の楽しみは、タモと「がんけのゴミ捨て場」から見つけた空きカンをもって田んぼにドジョウやフナやをとりにいくことです。土手にはフキノトウやアサツキがかおをだしています。
4月の半ばになると、5月8日の花祭りにそなえて、校外班ごとに大安寺山に「陣とり」にでかけ、陣のぐるりにたてまわすために、山から芽吹きの早いトリシバ(オオバクロモジ)をたくさんとって、花祭りまでに枯れないように、上野ではヨネヤの川(防火用貯水池)につけておいて5月7日には陣にたてまわしてかざりつけをして、その夜はでき上がった陣がよその町内の子らにこわされないように、山の中に泊まり込むのです。
このヨネヤの川はガマノホが生えて、夏にはブル−の美しいギンヤンマがとびかう、すばらしいため池でした。ギンヤンマはさいしょの1ぴきは、なんとかタモでつかまえますが、2ひきめからはオトリのしっぽをヒモで結んで、とんできたギンヤンマに近づける「トンボ釣り」でつかまえるのです。
この防火用貯水池にはフナやコイがいて、年に1度そうじをします。ドロをかきだすために空にしたとき、にげまわる魚をつかまえるのも楽しい年中行事でした。
フナ釣りといえば海軍道路のツヅミ(水木沢の上にある農業用の貯水池)です。サオは新町の長津釣り具店から買った竹の1本竿、エサはごはんつぶかミミズ、ハリは2本つけますが、ほとんど2匹釣れてくるので100匹とかはあたりまえ、ときどき背中がまっ黒で腹が赤いアガハラ(イモリ)が釣れてくるのがたまにきず。これは子供たちの間では、かみついたらカミナリがなるまではなれないとか、ドクがあるとかコワイもののナンバ−ワンでしたので、釣れたらハリを切ってはなしてやるしかないのです。
このころは夕暮れまで遊んでいて、ときどき大きな火の玉が飛ぶのを見ることがありました。火の玉を見ると子どもたちは、しばらくは早く家に返るようになったものです。
自然が元気だと何でも棲(す)んでいて、みんな元気でいられるのかもしれません。
大畑川にダムが一つもなかった昔は、河口から30キロ上流の赤滝までサケやマスがのぼっていました。
どこの川でも一番の上流にはイワナだけがすんでいますが、大畑川の赤滝上流にはスギノコ(サクラマスの陸封型)だけがすんでいます。
大昔、サクラマスが産卵していた川が、火山のふん火で流れ出た溶岩(ようがん)にせきとめられたため、海にもどれなくなったサクラマスがイワナと同じように川で生活するようになって、イワナとの生存競争(せいぞんきょうそう)に勝ったためです。
昭和30年ころまでは伐られたヒバ丸太は、イカダに組んでせきとめた川にため込み、一気に下流へと流して運びましたが、とびはねたスギノコが、キコリたちが乗っているイカダの上にあがってくるほどだったといいます。
河口から6キロほど上流の小目名部落の、自称「魚浪人(さかなろうにん)」の北上武夫さんは、若いころから魚とりが大好きで、春はオゲ(ウグイ)に始まりチカ、ヤツメウナギ、ヤマメ、イワナ、アメマス、サクラマス、ゴリ、アユ、ヌゲ(スミウキゴリ)ウナギ、サケ、カジカ、オチアユと一年中川魚をとっていました。
当時はヤマメもイワナもジャッコとよんでいて、マスやサケのホリ(卵を生むところ)の卵をねらって5・60匹ものヤマメ・イワナがつきしたがっている。北上さんはこのヤマメやイワナをイクラをエサにして、いくつものホリを釣り歩いて、コダシ(ビク)に入らないくらい釣れると、いったん家に帰ってまた釣りました。
釣ったジャッコはいろりで焼いて、干したあと保存しておいて一年中ソバやニシメやミソ汁のダシにします。
ヤツメウナギは5月初めころから、小石の川底にホリを作って数十匹の集団で産卵しているところを、下流から近づいて下から順番に手ぶくろをはめて手づかみにしてとります。ヤツメウナギはビタミンが多くて目の病気によく脂肪分も多いので、ぶつ切りにしてミソで煮込むとそれはおいしいものでした。
ゴリは3センチくらいのハゼのなかまで、夏に流れの弱い岸よりの水面を集団でスイスイとのぼってくるのを、石をならべて流れをせき止めて、あみで作ったカゴの中にさそい込んでとってタマゴトジなどにして食べます。
夏のあつい季節は、仕事をおえた男たちが夕涼みがてらにハコメガネとアユカギをもって川に入り、なわばりの中でコケのついた石をナメるアユを予測した通り道にまちかまえたカギでたくみにヒッカケて、お酒のさかなにしました。
オチアユは9月から10月すぎまで小目名、高橋川、ガゲマッカなどでガラガゲや投網でいくらでもとれました。
新町の畑中のおじいさんや兎沢の虻川のおじいさんたちは、一晩に一斗缶にあふれるほどとってヤキボシにして保存しておいてダシやコンブマキにしました。
カジカ(カンキョウカジカ)は流れの早い石の下にすんでいて、エサでも釣れますが石の小さいところでは投網でとったり、ハコメガネでのぞきながらヤスで突いてとります。
カジカの仲間は味がよく、ダシにしたりミソ汁にしてたべました。
クマガニ(モクズガニ)は、夏にはイカの足をつけて釣り上げたり、秋には海に下るカニを通り道にしかけたカゴの中にさそい入れてつかまえます。
カニは塩ゆでにしたり、ミソを入れてカニ汁にして食べました。
交通手段が発達していなかった時代の山村での生活は、海でとれる魚がよういに手に入らないことから、川でとれる魚は食生活になくてはならない人々の命をささえるたん白源であると同時に、貴重な収入源でもあったのです。
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今の時代は地球規模(ちきゅうきぼ)の環境破壊(かんきょうはかい)が心配されていますが、古くから漁業や農・林業で生きてきた大畑の人々にとって、これまでになくイカの不漁がつづき、木材のヒバが売れないなど町の経済がゆきづまってきています。
これは、地球温暖化(ちきゅうおんだんか)で海水温(かいすいおん)が上昇していることや、外国から安い木材を輸入(ゆにゅう)していることなどと大畑のくらしが直接に関係していることをあらわしています。
森を守り育てて永久に木材を生産し、海に磯(いそ)をとりもどして魚を殖(ふ)やす。大畑川を昔のように生き物のあふれる川に造りなおすことで、大畑の第一次産業を活気にみちたものにすることこそ、大畑の地がふたたび多くの人々を養って元気をとりもどすことができるただ一つの方向なのです。