最後の三羽(サンパ)舟 著者澤さんとは 戻る大畑の漁業と先人の努力
大畑は古くからヒバの産地で北前船で丸太の積出しが行われていたし、スルメイカがたくさんとれて新潟県や富山県など全国からイカを求めて人々が集まってきました。
むかし大畑港は天然の河口が港として利用されていたため、ヤマセが吹くとイカ漁から帰ってきた船が次々とそうなんして多くの犠牲者(ぎせいしゃ)が出たことから、国や県にはたらきかけた結果、昭和8年には漁港の工事が始められて今のようなりっぱな港(外港)ができました。
大畑は昔からイカしかとれなかったかというと、そうではありません。
イカがたくさんとれる前から、マグロ・サケ・サクラマス・ヒラメ・カレイ・タイ・タコ・アワビ・ウニ・コンブ・ワカメなどがたくさんとれて、イカもその中の一部として漁がおこなわれていました。そして、いちばん浜がにぎわったのがコウナゴやイワシの地曳網漁(じびきあみりょう)でした。江戸時代の宝暦4年(1754年)にはすでに「イワシの大漁がつづく」との記録があります。
大畑に古くから住みついた網師の長津家では、これらの漁のために次々と7隻の長平丸という三羽舟(サンパやホッチ)と呼ばれる舟を造って、コウナゴはチリメンジャコ、イワシは煮て魚粕(さかなかす=畑などの肥料)や魚油(ぎょゆ=あんどんの灯油)として遠く江戸までも送り出していました。
赤川・木野部・釣屋浜・二枚橋では、イワノリやフノリがたくさんとれるようにと石工(いしく=石職人)をよんでわった石を、地元の漁師が人足(にんそく=共同作業)で背負って海に入れて磯をつくりました。たくさんとれたフノリは浜の人たちの生活に必要なものとこうかんされたり、京都まではこばれて建物のカベの接着剤(せっちゃくざい)にもなりました。釣屋浜の古老は「海に川水が入るところでフノリが多くとれた」と言います。
北海道大学水産学部の松永勝彦教授は、『森が消えれば海も死ぬ』と題した講演会で「森からの栄養塩類(えいようえんるい)が海草と植物プランクトンを育てることは80パ−セント解明された」と講演されました。森の腐葉土(ふようど)から供給されるフルボ酸鉄は粒子が小さく海草に吸収されやすいというのです。
近年あちこちの海岸では、海草がはえない真っ白な石が目立っているといいます。
それは、ウニやアワビが生きていけない砂漠(さばく)のような海底に変化している。いろいろな原因で海が死んでいるというのです。その現象(げんしょう)は、森が伐採されて水の量が少なくなったところで起きているといいます。
また宮城県気仙沼湾でカキの養殖(ようしょく)をしている畠山重篤さんは「森は海の恋人」という本を書きましたが、カキの養殖を成功させるために漁師の仲間たちと山に木を植えつづけていますし、北海道指導漁連の柳沼武彦さんは「木を植えて魚を殖す」ことを漁協婦人部によびかけて木を植えつづけ、襟裳岬(えりもみさき)では木が伐採された後とれなくなっていたコンブや魚がふたたびとれるようになるなど、あきらかな成果をあげています。
下北半島の東通村でも海岸林が伐採されてコンブやワカメ・ウニやアワビがとれなくなったことから、尻屋(しりや)の漁師たちは海岸に潮風に強いクロマツやカシワの木を植えたところ、もとのようにとれるようになったという記録があり、現在もきちんと漁場を管理して高く安定した沿岸漁業を経営しています。
昔、イワシが寄せてきて水面が青黒く変化するようすをいち早く発見するために海岸通りの高台には、ところどころに色見ヤグラがもうけられていましたが、孫次郎間の岬(みさき)は「色見崎」とよばれていました。
イワシの仲間にはニシンなどもふくまれますが中でもマイワシとカタクチイワシが代表的な種類で「海の米」とも言われますが、イワシの大漁・不漁は環境の変化やイワシ自身の習性などが原因で数十年もの周期で変化します。
マイワシは膨大な量の卵を生みますが、大漁の年でも20センチ以上の大羽イワシといわれる大人になれるのは、0.01パ−セント以下でしかありません。
マイワシは、ケイソウなどの植物プランクトンや動物プランクトンを食べますが、プランクトンは川水が流れ込む沿岸域と、温度の低い養分に富んだ親潮(寒流)と暖かい黒潮(暖流)のまじりあうところで多く発生します。
こうして生まれたイワシが卵から大人になるまでの間に動物プランクトンやほかの魚、クジラや人間など哺乳類をやしなっていることから海の米と言われるのです。
もちろん大畑特産のスルメイカもこのイワシを主食としていますから、イワシのわくような豊かな海でないとイカもとれなくなるのはごく当たり前のことなのです。
現在、漁業でとられたイワシの90パ−セント以上がタイやブリなど高級魚のエサとして消費されています。
上野と湊のあいだの海岸には、広大な磯があって、そこにはコンブやワカメ・フノリ・アマモなどの海草が生え、ブリの子などさまざまな魚たちの稚魚が群れていて、子どもたちは潮が引いているときには学校から帰るとカバンを放り出してヤスを片手にかけだしていきます。春にはカジカやアオドコ(クジメ)などをとり、夏には泳いでウニやアワビ、ウミタナゴやカレイがとれ、冬には夜に空き缶にロ−ソクをつけたカンテラでフノリやタコをとっていました。
朝、砂浜ではとってきたイカがムシロに広げられて家族総出でさかれ、海水を汲んで洗ったあと浜いっばいにナヤが築かれ、イカのカ−テンでスルメが製造されたことから渚(なぎさ)には新鮮なイカのエキスに育てられたヒラツメガニやスナエビが足の踏み場もないほどすんでいて、裸足で海にはいるとはさまれるほどでした。
干潮でできた潮だまりには砂の色をしてお腹に卵をだいたエビがいて、バッタをとるようにそっと近づいて砂にかくれたところをつかまえるのは楽しいゲ−ムでもあり、スト−ブで焼いて食べると塩味がきいてこれは絶品でした。
秋、台風のシケのあとの海岸には身が厚く成長したコンブがよりつきます。浜にくりだした人々はわれ先に海に入ってはコンブを拾い集めて天候の回復をまって砂浜に干し、貴重な現金収入とするのです。
浜にはいろいろな物が打ち上げられました。網で傷ついた大きなスズキやミズウオであったり、波が打ち寄せてかえすたびにピチピチはねるイワシを手づかみにしたり、直径が1メ−トルあまりのクラゲは子供が上でジャンプしてもつぶれないほどであったり、尻屋沖でくずれたホヤ山のホヤであったり、クジラだったり、11月の寒さがきびしくなるころにはタコブネであったり、またそうなんした船の積荷であったり、昔の銅銭であったりとそれぞれに人々の食生活を豊かにしたり見聞を広げるものでした。
朝、イカ釣りから帰ってイソブネをこぎだした父と、正津川根(ネ=海底のイソ)でイガノフをエサにしてのタイ釣りで、70センチあまりのマダイが7尾も釣れたり、同じようにテクイ(手釣りのヒラメのこと)がおもしろいように釣れて、人々のくらしをささえていました。
上野のイソには、いろいろな生き物がいました。
潮だまりにはハゼのなかまや緑色のカジカ、緑や赤のモエビ、すきとおったスジエビなどがいてザルですくったり、竹のハシにつけたぬい針でさしてつかまえたりと友だちときそいあってあそびました。大きい魚やきれいな魚を見つけたときはうばい合いをしながら遊んだものです。
中にはいやなものもいました。むらさき色のツユを出すイソネズミ(ウミウシ)や石の下に手を入れたときにヌルッとしたかんしょくのイソギンチャクで、とび上がるほどいやでした。
夏の夕ぐれはイソ舟をこぎ出し、針金のワに網をはってまん中におもりの石とイカの足をつけたガニアミをいくつも海に投げ込んではカニの入るのをハコメガネで見ていると、イカの臭いをかいだヒラツメガニがぞろぞろと網に入ってきて一晩に200匹もとれました。ときには大きなハモ(アナゴ)やカレイも入ったものでした。魚が入るとにげられないように水圧をかけるために、もうれつなスピ−ドで引き上げなければなりませんでした。
まっ暗になって浜にもどると、さっそく家に帰ってガニをゆでて近所に分けたり家族みんなで窓を開けはなして食べるのです。
このときは、富山の薬屋さんが置いていってくれた食い合せの表を見ます。カニと氷水とかカニとスイカとか書いてあり、スイカや氷水を食べた人はガニはおあずけとなります。
子供たちだけでカニをとるときは、同じ網を砂浜から渚に入って沖に向かって投げ込んで、ころあいをみて打ち寄せる波のスピ−ドにまけないように引き上げるのです。
イカ漁を引退したおじいさんとか、12月にイカ漁を切り上げた男たちがイソ舟で磯を巡りあるいて魚や海草や貝をとることを「磯廻り」といいます。
とれるものはソイ・アイナメ・カレイなどの魚やウニ・アワビそしてコンブ・ワカメなどの海草です。漁師たちは魚がいつもいる場所を知っていて、とくにタコは穴に入っていることから自分の穴を人に知られないようにすることが多くとるひけつでした。また魚はハリで釣ったりヤスで突き、タコは鉛をとかしてカギをうめ込んで作った分銅に赤い布キレをつけてタコをおびき出して釣ったりと、道具や方法をきそいあって酒の席では自慢話に花をさかせるなど、心豊かなたたかいを展開していたのです。
自然の海が豊かな生態系をはぐくんで、人々のくらしといい関係が続いていたころの話しです。
長津家で昭和37年、最後に建造されたサンパ舟は造られた小屋の中から一度も海にでることなく眠っていました。舟が完成したときにはコウナゴもイワシもとれなくなっていたからです。
’94フォ−ラムin大畑では、山にはいつまでもヒバの丸太が伐りだせる森を育てるために成長した分を伐るなど山のしきたりを大切にすることや、鎮守の森や桜づつみ、やしき林や公園の森など、まちの中にも木を植えて「魚つき林」をつくりたいと思っています。
むかしのようにサケが一晩で100本もとれるなど、川魚や川エビ・川ガニがあふれる川に造りかえるために「近自然工法の川づくり」を進めています。
大畑では昔、立派な漁港を造るために海草の森(磯)や砂浜が埋められて、多くの生き物たちのスミカが失われました。そのために沿岸漁業が成り立たなくなったといわれることから、昔の人々がそうしたように磯や砂浜を大事に守っていろいろな魚が寄りあつまっていつまでも豊かな漁業ができる海につくりかえて、未来にひきついでいきたい。
そのためにもこのサンパ舟をその象徴として長津家からゆずりうけ、舟小屋を建てて保存して海で生きてきた大畑の漁師の心と技を大切に受けついで、ふたたび浜にイワシが寄りついたときにはいつでも漁にでられるように準備をととのえているのです。