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旬に竹がのっかると筍、いつもは格別気になるものでもありませんが、少しばかり拘りをもってこの一字を見つめていると、さながらカビの生えた日記を読むが如く思いに捕われます。旬に形容される物、数ある中で何んで竹だけ(?)冠するに至ったのか、もっと言うと僻み根性と取られますので、ひとまず置くとして、この一字の中に四季の香り、かの地の風景、暮らしの匂いと言ったものが溢れるほどに詰め込まれていると言ったらちょっと大げさに過ぎるでしょうか。
我が家の食卓といっても、ごくささやかなものですが、ふっと考えてみるに年中、旬の物がのっかっているとも言えるし、全く逆かなぁとも思えます。どだい年中ある物を旬の物とは言わないし、あえて言うなら、ある時まではそうでしたと言うべきです。
拘り過ぎると際限なくなりますが、私にとって旬の代表格と言えば、なんと言っても春先はニシンに尽きます。年中出回っているニシン、北米産か北欧産かわかりませんが、私の頭にインプットされているニシンからすると、あれはニシンでなくNISHINといったものです。親父が春先、ニシン場から持ち帰るニシンは姿、形からして違ったものです。炉端のよこ座に鎮座するじ様が待っていましたとばかりに、炭火をガンガン焚き、粗塩をぶっかけた串刺しのニシンが炉端にゾロリと並んだ日には、一家が久方ぶりに揃ったことも手伝って兄弟手をとり小躍りしたものです。ニシンと言えば数の子ときますが、私の場合は今でも絶対白子です。今時ナンセンスな話ですが男は白子を食うもの、と教わったわけでもありませんが、今にして思うと親父やじ様がまず箸を付けるのは絶対白子だったとしか言いようがありません。三つ子の魂百までと言ったところででしょうか。何の事もない、ささやかな男の特権、我が家だけの小さなしきたりに過ぎなかったのです。
その親父、じ様が今に在ったらと、考えるだけで空恐ろしくなります。飯粒一つ残そうものなら張り倒されるどころか、三食お預けというキツーイお仕置きを体験した身にすれば尚更ですが、逆に怖いもの見たさも手伝い出来るものなら一日だけでも、この世を見せてあげたいとも思います。結果は押して知るべし、目を覚ました途端卒倒、早速119番
と言ったところでしょうか。三食お預けの刑を減刑された恩返しと思ったものが、またまた親不孝の上塗りとなる始末。
飽食、グルメ・・・なんだかよくわからないが、ラーメンの中身に純日本産と言った物が、水とネギだけだなんて考えるだにアホらしく、しまいには、近頃何を食べても美味しくないだなんて、これだもの親父、じ様が二度と起こさないでくれ、と言うのも当たり前も当たり前、今はやりの超の付くの話。時には塩焼きのサンマ、イワシでも食ってみろ、と言いたいね。
ところで、日本で一番食される魚はと言ったら何をあげますか。
*筍、にしんの産地の皆さん言い過ぎ、間違い・・・堪忍して下さい。