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いつも月末になります。 小生は50才後半ですがこの年になるまで江戸時代の貨幣の事をよく分かりませんでした。 皆さんは分かりますか? 実は現在と違って3種類の貨幣制でした。(江戸文化博物館) 本当はあと2つ、 1つは、藩札(赤穂藩が取り壊しの時、家老の大石良雄がその藩札をすべて外の貨幣と交換してあげたので、庶民は損をしなかった。外ではトラブルもあった。 1つは、米である。藩の大きさも武士も石高で計算された。 しかし、それを除いてもアト3つとは、 金貨と銀貨と銭貨がそれぞれ流通していたのである。今でいえばドルとユーロと円が混在していたようなものである。それぞれは勿論、両替商などを通じて両替え出来たが相場が違っていて幕末には銀、銭相場が下落している。上方は主に銀貨が、江戸の方は金貨による決済が行われていて、身分的には上級武士が金貨、下級武士が銀、庶民が銭。給与では大工左官などは銀、日雇い人夫は銭。商品では、砂糖、薬は銀、茶、野菜、魚の日用品は銭が使われていた。 銀貨は実際の重さで表した。(貫、匁、分、厘、毛) 銭貨は1枚が1文、千文で1貫文。(ただし、1文銭を紐に綴ると96文で100文とした。) 金貨は大判が10両、小判が1両。後は4進法で1両=4歩=16朱とした。 しかし、実際下北では税金の計算などに金貨の単位の下の方は砂金の目方で表示した。 ここでは主に金と銭が流通していた。 特にここ下北は米がまるで採れなかったので流通する商品(木材、魚糟、魚油、外の海産物など)に税金がかけられた。山で働く人や漁労にも掛けられたので、2重取りのようでもあった。 しかし、この町の湊地区にだけ今でいえば固定資産税(土地税)が掛けられていた。 それだけしても人口が増えて困ったという。 なぜなのか、よく分からない。 きっと、うまい利権があったと思う。 |