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宮本常一著「菅江真澄」(未来社)のつづき
「虫送り」 やる村とやらない村がある。被害の大きかったところにその対策として残った。
「盆踊り」 人が大勢死んだところ。
「白井英二」 下北から以降は待遇が違う。武士との付き合いがある。その為津軽藩から出るとき「菅江真澄」と名前と姿を変えることになる。
「蓮如」 日本海に真宗が進出。その後100年しないうちに津軽のあたりに進出。
「日持上人」 日蓮宗が男鹿半島、津軽、北海道に点々とある。宗教は船でも広がる。
「慈覚大師」 (円仁)東北にその信仰を持った人が地域に貢献した。(天台宗)
真言宗はずっと後までこなかった。
「能代春慶」 京都の塗り物師―飛騨―東北に
「針」 秋田でみやすばりが売られている。(京都から来ている)
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宮本常一著「菅江真澄」を読むと北東北の江戸時代の実情が判る。
民俗学者なので分析も面白い。
下北の事も出ている。菅江真澄が旅に出た時は浅間山が大噴火、その後大変な飢饉となる。津軽では人を食う話も聞いている。彼の行動には国学者として理想郷を求めたのではという、解説が多いが宮本は偶然性を言っている。無銭で旅行できた理由付けも面白い。以下、興味のあることをまとめると
「賽の神」 関東より西では石であることが多いのに関東にはいると賽の神が男根になる。言葉から「さえ」が「せい」になり、性の神になったのでは、
「草履」 下北半島では米づくりは明治30年頃からなので草履はえびづるのようなものを槌で叩いて柔らかくして作った。
「漂着物」 日本海や下北の尻屋などはそれは暮らしの大事な糧になっていた。10月は一番それが多い。村の人は時化を喜ぶし、遭難を祈る。
「飢饉」 津軽にはあった。人も食った。みんな南へ移動した。南の人はさらに南へ移動。下北や北海道は飢饉がない。海産物があった。「鱈」を煮てかき混ぜるとご飯のようになった。「たらふく食う」の語源となる。
「馬の放牧」 大きな木に火をつけた。少しずつ燃えて雪で溶けてそこに笹の芽が出る。馬はそれを食べて越冬できるようになった。下北では寒立馬が今もある。
「欧米人」 江戸時代、彼らとの混血が三陸の海岸や下北の東海岸にみられる。捕鯨できた人たちとのものだろう。この辺では青い目の日本人に逢う事がある。
「アイヌ」 江戸幕末まで混在していた。アイヌを支配的に一段下にみるようになったのは明治以降である。(江戸時代もその手の事件はあったが)
「ゆい」 一番上が女の子だと跡継ぎが大きくなるまで女の家に暮らし、その後に男の家に行く。労働を交換する。(労働婚だ)「結納」はそれを金で買う事の名残り。
「イタコ」 江戸時代は恐山にいなかった。
「ねぶた」 江戸時代はねぶた流しだった。秋田ではねぶり流しといった。
「下北の文化」江戸時代は非常に広い交流があった。これは日本海の海岸にも多い。
「おしら様」 加賀(石川県)の白山信仰である。白山姫命を祭っている。イタコが必ず肩へ掛けている竹筒の中に白山姫命の名が書かれている紙が入っている。白山信仰は養蚕と繋がりがある。下北でもそのための桑の大木がある。
「熊野信仰」 熊野巫女は人形を持って神おろしをする。また、家々を回り、かまど払いをした。人形浄瑠璃の元になった。白山信仰は山伏の信仰だが山伏は巫女と一緒に活動した。結婚もした。イタコがおしら様を持って歩いたことは関連があると思われる。
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