我が家にネコがきた。
 我が家には犬が2匹いる。
 犬は黒の毛が長く外国産の顔をしている。
 その子供が4匹生まれ1匹残った。主たる毛は黒だが顔の端に茶色の混じった柴犬だ。父はその頃うろうろしていた茶色の柴犬だろうと近所のうわさだった。

 避妊を近所の人に勧められたが私はいやで犬達を小屋に入れてオス達から隔離している。それでは可哀想なので早朝、散歩に連れていっていたが私が出ていくまでわんわん吠えて近所迷惑なので、朝の一仕事を終えた後に連れていくようにした。犬達は私の気持ちを察してか早朝は全く吠えない。そのかわり帰ってくると本当にうるさく催促する。かわいいものである。


 そこへネコがきたのである。

 妻の友人から貰ったそうだ。妻の言い訳はなんだったか忘れた。我が家では今まで家の中でネコを飼ったことは全くない。私は部屋を散らかすので嫌だったが反対する余地はなかった。逆にまだ赤ん坊なので誰でもひざの上で寝たり、じゃれたりするので可愛く思えた。用便もキチンと決められた場所にする。でもいいのだろうか。今は外へ出ないが私がネコを抱いて犬と対面したら犬達のそのショックは計り知れない。それは絶対できないことだ。

 それにしてもネコは自由に家中を散歩しているのに犬達は一生牢屋に入っているようでその差別たるや考えれば計り知れないモノがある。私は犬達にネコより好きなことを何処かで伝えねばならないと思っている。



 犬にとってもっと不幸なことが歴史に残っている。
 それは千島のアイヌの歴史にある。
 日本人で、という言い方は変なので和人というがその中で最初に彼等アイヌと遭ったのは誰かよく判らないがもしかすると万治三年(1661)択捉へ漂着した伊勢の船の乗組員達かもしれない。

 少なくとも文献では一番古い。

 その文献には彼等を「毛皮を着て日本のたいていの人より七八寸背が高い」とある。

 その後1713年頃千島列島探検をしたロシアのコサックが 皇帝ピョートルに出した手紙に

「クリル人(アイヌ人)は、他のすべての沿海住民と同じくずんぐりしているが男性の中にはかなり背の高い均整のとれた体をした者もいる。彼等は浅黒い皮膚をして全身毛で覆われている。目はつり上がり顔は平ベッたくない。時として丸く整っている。女性の間には、太平洋の島々からここだけでなくツングースやアリュート、チュクチまで広まった入れ墨さえなければ、ヨーロッパ人のタイプの美しい容貌も見受けられた。」

 と、あるように北海道のアイヌとの違い背が高い。しかし、彼等の運命は暗かった。
 江戸時代は北方四島までは日本領、それ以北はロシア領だったが、ウルップ島でロシア人襲撃事件や日本領でも「クナシリ、メナシの乱」で和人を襲撃する事件がありそれは千島のアイヌには大国は迷惑そのものだった証拠 である。

 明治8年(1875)日露で樺太千島交換条約が締結して不凍結港の欲しかったロシアが樺太を取り、代わりに千島列島を全部日本のものとした。

 その後、日露戦争で樺太の半分は日本のものとなるが、第二次世界大戦で樺太も千島もソ連のものとなり現在に至っている。
 明治の日本の千島アイヌ政策としてより北方の島は治安維持の軍の派遣など出せないので住民をより南方の色丹に移住させ農業や畜産を奨励して援助も十分することにした。その政策に従わないとロシアに移住するか、そのまま居座るか、または政策に従うかの選択を住民達は迫られた。
 一番北方のシュムシュ島の96人は政策に従い、島をすてた。その時、愛育していた犬60頭のうち老犬を除く58頭と牛4頭のうち2頭を殺害した。犬は住民にとって冬ゾリに欠かせなく家族同様であったのに、二度と帰らない覚悟で移住した彼等にはその後も悲惨であった。環境の激変、栄養不足、新しい生活に馴染めず身体衰弱や風土病や脚気などで死亡する人が続出した。永年漁業や狩猟で休む習慣の長くとれたのが農業や畜産のようにマメに働くのに馴染めなかった。1884年頃また島に帰る話もあったが、その頃には人口も半減していた。
 その後、第二次世界大戦で北海道逃げてきたが、そのままこの民族は消滅していった。江戸時代にロシアに天然痘をうつされ死者を多く出したりと、この人たちに文明への免疫がなかったのではないか。
 アイヌのことになるとついこの話になるが、人間の遺伝子は笑ったこと、泣いたこと等自分の歴史を記憶して次の代に伝えるという。また、縄文人とアイヌとは遺伝子の組み立てが類似しているともいう。縄文人から変化をし続けた日本人と自然が豊かで変化をしなくてもよかったアイヌには大きな違いが生じた。その中でアイヌの急な変化はむりだったのだ。このことは道新選書、小坂洋右著「流亡」にて多くを知ったが事実をひろく知らせるべくペンを執った訳である。

犬のこととアイヌのことを、

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