
江戸時代の漂流記をまとめた全集などをさがしても江戸前期のものは少ない。しかし村林源助の「原始謾筆風土年表」にはたくさんでてくる。
1、寛永五年 (1628) 越前国浦 藤右衛門漂流の記に初め北高麗辺りへ漂着
2、寛永十年 (1633) 尾張船十五人乗 巴丹国へ漂流の中三人彼地の船にて当年 送来れり
3、寛永十一年(1634) 角倉与市 前橋荘兵衛か船頭徳兵衛 天竺へ着船雑話
4、寛文十二年(1672) 伊勢の米船 漂流七ヶ月江泥府へ 以下省略
5、延宝八年 (1680) 巴丹船日向へ漂着
6、貞享元年 (1684) 常陸水戸船 台湾へ漂流
7、貞享二年 (1685) 阿媽港(マカオ)船四十七人乗十二人送来七月帰帆
8、貞享四年 (1687) 紀伊熊野へ呂宋国の壁蔦(はくちょう)船漂流
9、元禄四年 (1690) 長四十間の唐船伯耆浦へ漂着
以下省略
このうち1〜4は文献をさがせる。5以下は風土年表だけの記載かもしれない。それにしても源助の時代は写しをみたか、それらの記述のある文献を読んだのである。この片田舎にその資料はまだあるのか調べてみたい。もしあればそれは本当に貴重なものなのはいうまでもない。
1、の藤右兵門漂流の記は写しやその記述のある文献がたくさん残っている。それはこの漂流が注目される要素が多いからである。その中でも漂流者達が中国の政変(明から清への変わりめ)をつぶさに観てきたので当時の幕府も彼等から実情を聞いている。
その写しや文献を調べると漂流した年が大きく三つに分類できる。
1、石井本の系統 寛永十三年、二十一年
2、内藤本の系統 寛文十三年
3、未見本 寛永二十年
このように写しのさらに写しになるのでどこかで一つ違うとそのままになってしまうのである。その内容は少しの違いはあるが同じである。それは源助の書き方とニュアンスが違う。 尾州藩士天野信景(1661ー1733)著の随筆「塩尻」(百巻本、巻の二)の撻靼漂流の記事が源助に近いのでつぎに紹介する。
「風土年表」
越前国浦藤右衛門漂流の記に初め北高麗辺りへ漂着 其より陸三十日にて満州の都へ至り

「塩尻」
(途中より)右十五人同船八月十三日暴風に依て北方へ吹放され、翌十四日撻地に漂着、夫より都府へ三十七日にゆき、是より北京の府下へ亦三十余日に至り四月留止 是より朝鮮の国境まで二十九日に往き 夫より都府へ二十余日の路を歴て至り 翌年正月の末釜山浦に着三月十一日迄彼地に逗留し 同月十七日出船同日壱岐へ着船し 同四日出船同十九日大阪着岸同二十三日福井へ帰ると。云云(しかし漂流年代を正保三年と他と違う)とあり、数字の違いが少しあるが中身が酷似している。漂流の内容に触れられていない点も同じである。同じ文献の写しを読んでいたかそれぞれ違う文献かは分からないがどうして源助がこのことを知りえたか、推理するしかない。漂流年代が双方他の文献とは違うことをどう考えるかがポイントであると思われる。
幸い私たちの歴史と神話の委員会の委員長の宮浦氏は町の郷社の宮司であり古い文献が数多く残っている。これはすばらしいことである。江戸の大火は年間行事のようにあり江戸に住んでいた学者らは金に糸目をつけずに本を買った話をよく聞くがそれを消失した話もよく聞く。それを免れても大震災、空襲で消失した物が多い。大畑でも私達が子供の頃まで大火があった。宮浦家は運よくそれを免れている。「宮浦家史料」(宮浦家の古文書の目録)にみると ぜひ見てみたい本がたくさん出てくる。意外とこの漂流記の答えがひっそりと眠っているのではないだろうか。
「写真はみちのく北方漁船博物館のものです。現在も現役の帆船マカオのジャンク船です。」