
今の長浜市は、ガラス器の販売の「黒壁」で人気の街である。そこで、豊臣秀吉と石田三成が出会った。
石田三成といえば日本人なら知らない人はいない。豊臣秀吉の側近で今の政治に置き換えると官房長官であり、秀吉の遺志を継いで天下分け目の関ケ原合戦で徳川家康に挑んだ西軍の武将である.秀吉や家康などの戦国時代の大河ドラマや小説ではもちろん必ず登場する。また彼を主人公にした小説も多い。県立図書舘のコンピューターで「石田三成」を探すと6項目の本を紹介してくれる.しかし、小説の内容は関ヶ原までで、その子孫についてまでの展開にならない.
平成9年12月、「石田三成と津軽の末えい」(「極楽寺系図」の探索から解き明かされた真実.)佐賀郁朗著、北の街社が、出版された。
石田三成の次男、隼人正重成は杉山源吾として、津軽に落ち伸びていた。その子孫は津軽藩に仕え家老職の代もあった。下北半島の横浜町に文政の頃、ひば山の請け負いや売買で財をなした、その血縁の杉山家があるが、著者の父はそこから「佐賀家」に養子に出たという。
石田三成の娘、辰姫は、津軽ニ代目藩主に嫁ぎ三代目を生んでいる。しかし、その時の正室は、家康の養女満天姫(まてひめ)で正史では三代目の生母となっている。溝軽蕃も杉山家も徳川家康に刃向かった姦臣石田三成を先祖にもつことをひた隠しにして江戸時代を過ごした。著者は沢山資料を集めて実体に追っている。その資料の中にはニ人には六人の兄弟(男三人、女三人)があり姉の一人は若狭守譲武田氏一族の岡家に嫁いでいる。その孫が三代将軍家光の側室になり、その娘が尾張ニ代藩主徳川光友に嫁ぎ三代君主徳川綱誠を生んでいる.春日局(かすがのつぽね)の口添えがあったりして将軍家の側に来れたが何という運命の悪戯なのだろう.宿敵同士が血縁になっていた。これらは、歴史の表面には出てこない、だからこそ歴史はおもしろいのだ.
石田三成が歴史に登場してくるのは彼が十四、五才の時である.当時、秀吉は琵琶湖の湖畔の近江の国の長浜城城主になったが、成り上がり者なので家臣が少なく領土の中でも人材を集めていた.そのある寺でニ人は出会う。三成は、秀吉にお茶を出す。これを「砕玉話」から引用すると、「石田三成は、ある寺の童子なり。一日、放鷹に出でて喉乾く。その寺に至りて誰かある、茶を点じて来れ、と所望あり.石田、大なる茶わんに七、八分に、ぬるくたてて持まいる。 秀吉、之を飲み、舌を鳴らし、気味よし、今一服とあれば、又たてて之を捧ぐ。 前よりは少し熱くして、茶わん半にたらず。秀吉、之を飲み、又試に今一服とある時、石田、此の度は小茶わんに少し許なるほど熟くたてて出す。秀吉、之を飲み、其の気のはたらきを感じ、住持にこひ、近侍に之を使ふに才あり。次第に取立て、奉行職を授けられめと云へり。」この年、三成は十五才、秀吉は三十九才である.このエピソードを話が「出来過ぎだ.」という人もいるが、「全く荒唐無稽な話だ.」といって否定できないと言う人も多い.
この頃、武者修行をして自分の主人になるべく人を決めて自分をアピールする事はよくある話である。現在でも理想の会社に就職活動することに酷似している。三成はめでたく秀吉に就職できた。そして、十八才に本採用になる。それまでの小姓としての隠時雇用のとき、その仲間でケンカも強く先頭だったのが後の福島正則や加藤清正で、三成は嫌いだった。その二人には、秀吉も一国を与えるに不安があり部下に頭脳派を付けたりしたが、彼の死後その不安は的中した。このニ人は尾張出身である。それに対し秀吉の家臣で近江出身は、五奉行の石田三成、増田長盛、長束正家(増田に異説もあり)の三人や茶人、築庭家、築城家として有名になる小堀遠州や、片桐且元、脇坂安治、藤堂高虎など浅井長政系統がいる。近江出身の五奉行は、内閣官房や会社の秘書室的役目を上手にこなした。この地の出身者は近江商人と有名なように数理に長けていた。兵姑奉行として十万ニ十万の兵糧を輸送したり、徳川幕藩体制の原型になるような掟を定めたり、京都に聚落台築域という都市計画のプランナーとしてかかわったりその才能を発揮した。
その後の事は何度も何度も歴史小説に登場するので、ここでは省略する。
津軽藩と石田三成とのつながりは、天正十八年(1590年)の小田原征伐の時である。津軽藩主は陸奥の国の大名では珍しく、秀吉と戦う道をとらず、いち早くわずかの兵を伴って、秀吉に頭を下げてきた。このとき、漢軽為信は長男と共に駿河三枚橋城まで出てきた秀吉に謁見し、津軽の本領安堵をうけている。その執り成しをしたのが石田三成であった。洋軽藩はもともと南部藩の一部だった。秀吉はこのころ藩内のこのような争いを禁じていてその後、南部藩がそのことを訴えたが認められなかった.南部藩では、同じころ九戸氏の反乱があったがこれは、井伊氏や佐竹氏、蒲生氏などの援軍を得て征伐した。津軽藩はうまく立ち回り存続できた.そのことの大恩人が石田三成だったのだ.このときの恩を累代忘れず、三成の遺児をかくまい、娘を保護したのである.しかも、津軽藩は関ケ原の戦いでは、徳川側に付くべきと嗅覚をきかせて藩の存続に成功している。そして、三成への義理も果たしていたのだ。そんな南部藩の下北にも、豊臣方の落ち武者が多い.大畑町でも山本みつ先生のご先祖は、城大内蔵のちの山本大内蔵で最初は薬研の湯守をしていたが後に山吏として代々南部藩に仕えている。ほかに薬研の古畑家や川向かいの長津家などがいる。長溝家は豊臣の水軍で秀頼公より頂だいした杯もあると、いう。もしかすると、その水軍の船できたのかもしれない.大畑町の今の本町や南町が形成された時期は偶然だろうが関ケ原以後の慶長年間である。
もうひとつ偶然をいうと、石田三成の部下は武将、島左近以外はほとんど物語に出ない。一人だけ「三成の家老安宅秀安から島津義弘、久保父子に宛てた書状がある」と、安宅氏が登場している。
この名前は大畑町の宿老だった文化年間に村林滞助が著した「原始護筆風土年表」に出てくる。
「慶長頃に千々里浜のこなた木野部佐助川辺(大畑町)に安宅氏なる人の住居有し力元和はしめ田名部舘に御連枝(高貴な人の兄弟の称)の君居し玉ひしかハ佐助川より舘に進て仕へしか豊永の頃御連枝の君官府(三戸町)へ進ミ玉ふける後にも残住しカ正保の頃かとよ安宅なる人も官府へ進出しにより其蹟にそ菊池平左衛門の居住と問ふ」南部藩参考諸家系図にも安宅氏の家系に下北から三戸へ進出している人がいる。ただし年月が違うのでもっと調査が必要だ。しかし、片田舎に素養のある人が埋もれていたと片付けるのも不自然である.それだけ実力のある人が他地域よりきて住んでいて見つけ出されたと考えるのが普通である。安宅氏ははたして何処からきたのだろう。