越後の長岡藩


司馬遼太郎の「峠」を読んだ。
江戸時代末期の越後の小藩の長岡藩の河井継之助の話である。
価値観の転換期のその生き方は現代の生き方の指標にもなる。長岡藩の殿様は代々、徳川の家臣だった牧野氏が継いでいる。牧野氏は三河の出身でもとは今川氏の家来であったが今川氏が滅びてそのまま徳川の家臣となっている。江戸時代になり、ここの藩主になった。河井継之助は30代中頃まで、江戸や横浜、備前、長崎等先進地で今後の日本の行方を勉強するのである。当時は四十代半ばで隠居をする事も普通だったので、現在ならば、四十歳過ぎまでぶらぶらしていたのである。そして、藩のかじ取りを任せられ最後は筆頭家老(藩の首相)になるのである。彼は、武士の社会は終わり、新しい時代が来なければならない事は十分知っていた。藩主の立場も考慮して中立で藩の維持を考えたが、結果はその通りにはならなかった。
彼をぶらぶらさせたのも偉いし、その間の勉強があって藩はかじ取りさせざろう得ないところまで自分を磨きあげた河井も偉い。しかも、代々百石取りの家柄にである。

私は実は、この小説は別の事に興味を持って読んだ。
ここの家老の山本家を興味深く見た。
特別、新しい事はなかったが、この家のルーツは「山本勘助」である。「山本勘助」は、武田信玄の策士として有名で川中島の戦いで戦死している。武田軍に入る前は諸国を放浪し武者修業をしたが、その前は牧野氏に仕官している。実の弟はそのままいたが、彼は武者修業にでた。実は、牧野氏にいた時妻子がいた。その子孫が牧野氏に代々仕えた。「山本勘助」のひ孫に当る人で幕府に志願して使えた人もいる。「山本九兵衛正重」と、いう。

なぜ、「山本勘助」の事にこだわるかと云うと
この下北の豪商の「山本理左衛門」のルーツが「山本勘助」だと、
『母が理左衛門の子孫の人から聞いた、というから。』


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