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大畑町、孫次郎間の長津家が江戸時代から漁業をやってた事を証明する幕末の古文書が宮浦家にある。
 その古文書の絵をみると、赤灯台のあたりの磯が小高い山になっていて稲荷神社が祭られていた。絵をみるとその周りと後ろの崖の辺りが柵をされていて立ち入り禁止になっている。その神社の柵の中に長津家の作業小屋があり、使えない状態なので長津家では神社の管理者の宮浦家を通じて奉行に訴えたのである。その長津家が書いた書状と宮浦家の書状の控えが残っているのである。その柵はおそらく北方警備のため軍事施設(みはり番所か、砲台施設)を設置したため巡らされたのだろう。
 その作業小屋はイワシを煮て油を採りそのかすを肥料にしたり、煮干しにする作業をしたものと思われる。それから昭和30年代までこおなご漁やイワシ漁を続けてきた。 
 しかし、なぜそこでそれらの漁を止めたかは一番大きな理由は、イワシ漁が振るわなくなったのとミール工場など生産量や金額が大規模なものと仕組みが変わっていったのと、イカの前沖漁が全盛になったので経営の中心がそちらに移ったためと思われる。我々が中学時代は漁師の子供は前沖に出かけたし、高校卒業後サラリーマンになった時の給料の十倍以上も稼いだと、いう話はよく聞いた。それだけイカの前沖漁はすごかった。でも、今は、より遠方を求めたため冷凍設備など設備費や燃料費が嵩み大漁でも儲けれなくなってしまった。
 今考えると前沖で我慢しておけばよかったが、どこか我々がこの間に経験した高度成長時代のバブルに似ている。
 長津家ではイワシ漁の最後のあたりに新造を佩いたがそのまま一度も海に浮かばせなかった船がある。それは十人でカイを漕ぎ二つの櫓で漕ぐものである。「さんぱ船」とか「ほっち船」という。
 長津家ではこの船を大畑町へ寄贈した。フォーラムイン大畑のメンバーがそのためフェリー埠頭近くの旧イカつり組合の造船場あとに舟小屋を作った。(舟小屋のなかを見学したい時は会員まで)



 フォーラムのメンバーは大畑町の漁業を昭和30年代に戻したいと考えている。この舟小屋をその象徴にしたいと思っている。漁業はまず磯作りから始め、近くまでこおなごやイワシが押し寄せるようになれば理想的である。

 まず、杉を山から切ってきて、皮を剥がし、その皮は屋根材に、柱は丸太のまま使用、壁材は製材してもらい、板を使用、素人が中心だったが、本職よりこの建設に夢中になった人もいた。(私)

 みんなは、中のふねを「時空を超えた宝船」と、呼ぶ。
 中のふねは、またの機会に。

 さんぱ船の語源は中国語の「サンパン」(三板)が、船と陸を往復する船をいう。日本の伝馬船と同じだ。と、辞典に出ている。

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