|
かっぱに思うこと(07.12.15)
皆さんは河童というと、あのスタイル・容貌を連想しませんか?
でも、ある作家が妖怪、たとえば「塗り壁」などは漫画家の描いた物を連想するが、「塗り壁」はあの漫画家が想像した物で本当は形がない。古い建物の壁に潜んでいて形はない。と、いう。妖怪はすべて漫画家や絵描きの想像の産物であるのだ。
河童もそうなのである。
河童は河の童(わらべ)と書く。
その童のことをある仏像を彫る彫刻家は
「神の域にいる物」と、いう。
すなわち、人間の7才ぐらいまでの子供はまだ「神の域」にいるのである。
そういわれると、身近にいる幼児の行動、言動はまさにその域にいる感じがする。「天真爛漫」である。
(幼児期を過ぎ、みんな人間の世界に入り「悩み多い」人生を送る。そしてまた、神の世界へ行くのである。)
この2つの話を結びつけるとここでは「けがをされた慈覚大師様を河童が 助けて、温泉に入れて治療した。」と、いうことわざはあの想像の河童ではなく天真爛漫な子供のような河の神の子が助けたのであろうか。またこの神の子はいたずら坊主でたまに人間を河に引きずり込むのだ。だから、河童の伝説には良くないことも多い。
しかし、彼らが棲むということはここは「神の域」なのである。
人間が今は車でドンドン入り込んでいるがつい、40年くらい前までは ここは一般の人は木材運搬用のトロッコに便乗して入ることができたがなかなか入り込めないところであった。神聖なところであることは今は忘れられている。しかし、ここに生息する「しのりがも」は世界遺産の「白神山地」のほか余り見られないし、本当は里山という人間が入り込む山と違い、神の域なのである。そこに河童がいるのである。そこを荒らされるから河童達は立ち向かうのである。さらに、人間が入り込むとそこには河童はいなくなるのである。宮崎駿の登場者と共通する。
ここの露天風呂に入った人はみんな自然が豊かで満足していくが
河童の域にいることを自覚して自然を壊すことなく満喫していってもらいたい。
河にもいるが森にもいる童がやがて海を豊かにしているのである。
童達は現れなくなることもある。それは人間の仕業でなくなる。
しかし、話は最初に戻るが、河童天狗といい、河童と言いくちばしがあり、「からす」の変形を想像する人が多い。
ここには利口な「からす」がいる。私は何度も車の荷物をとられた。「からす」は利口であるがここのはさらに利口である。そういえば「からす」は森に棲む。(最近は町中でも多いが、)
それが河童なのではないかと、思うこともある。
カラスは将来なるのであろうか河童に?
それとも、童なのだろうか河童の正体は?
|